:: back :: :: top :: :: next ::

 
» 山形県マット死事件について » date : 2004/05/29  
もう、記憶の中では遠い過去の出来事になっていた。
山形県のマット死事件の公判があった。
一審の判決を退け、事件性を支持。
私は、妥当な判決だと思う。

被害者は、東京弁を話し、それがきっかけでいじめられたという風に記憶している。
私には、この出来事がいじめという名のもとで、死にまでいたる事件の発端になっている。

いじめというのは、昔からあった。
ちょっと不潔な子
ちょっと性格的にわがままな子だったり、結局いじめられる側に何らかの原因がある場合が多かった。
意味もなく、知恵遅れの子がいじめられたり、家庭環境でいじめられる子には、必ず味方してくれる環境があった。

しかし、山形のこの事件では、被害者は、快活で落ち度もなく、意味もなくいじめられた。そして、味方してくれる環境がなかった。

実際、中高生に聞くといじめというのは、ある一人が、意味もなく気に食わないというちょっとしたそのときの気分で集中的にターゲットを決めいじめる。そこで周りも何の意味もなく感化され、同じようなふるまいをするのが多いらしい。

いじめる側は、彼らのうっぷん晴らしのターゲットは、誰でもいいのだ。

運不運の世界を思う。

良い子でもいじめられるというのは、やるせない。
いったい何をしたというのだ。
いったい誰がそこまでする権利があるのか。。。

人と人との付き合い方というような道徳の時間は、今あるのかな。。

気分次第で世の中を生きれると錯覚している人がどれだけ多いことか。
世の中というのは、相手があっての世界である。
そういう教育が、一番大切ではないのかな。

結局この事件で法のもとで裁かれるのは、何人になるのだろう。。
被告は、上告をするらしい。
そんなものなのかな。。

意味もなく悲しみの中で散っていった尊い命の重さをもっと考えてほしいと思う。

裁判とは、ただただ権利を主張し行使するだけではないのだ。

原告の悲しみは、物質的な悲しみではないのだ。
私は、いつか心の安堵できる日がくるように祈ります。



» category : 世の中の出来事について ...regist » 2004/05/29(Sat) 16:55

:: back :: :: top :: :: next ::

:: P column M-i-O ::