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» 教育の向こう » date : 2004/10/31  
芸術の秋。 いろんな教育の現場で文化祭とか、文化発表会などという名前で学生たちの可能性を披露するものが数々あるだろう。

そんな中、テレビで放映されていたのか、知り合いからこんなことを聞く。

ある学校で白雪姫という劇をすることになった。主役の女子は決まり、他の子は木や草などの役になったらしい。
女の子は一生懸命練習をする。
そして、発表当日になって、この劇は中止となり、みんなで手をつないだお遊戯で終わりだった。
この出来事の裏には、主役になれなかった子供たちの親が先生たちに「なんで自分の子供は主役でないのか」的抗議があったためだという。

ここまでいくと私にはばかばかしいとしか言えないが、まったく近頃の親は何を考えてるのかわからない。
そして、教育の現場の先生も一体何を怖がって、主役の女の子を犠牲にしたのかわからない。

平等?って一体なんだろう?
一人一人の人間が誕生日が違うように、好きなものが違うように、まったくの平等なんてないのだ。
一人一人の能力は、微妙に違うのだ。はきちがえも甚だしい。

こんな間違った教育の方向はいつから始まったのだろう。

そんなことを思っていると、伊藤忠商事会長のお話を読む。
「今の義務教育は、教えるべきことを教えてない。ゆとりなんて老人のものだ。子供はそんなヤワじゃない。子供が持つ潜在的力を限界まで引き出すためには、スパルタ教育も必要かもしれない」

私も思う。何のためのゆとりなのか、何のための教育なのか。

学校は、まず道徳をきちんと教えるべきである。

たとえば、学校を休む。
私たちの頃には、それは悪のように思えたことが、今では、「なんで休んだらいけないの?」という疑問がかえってくる。
無条件で反応できないことが多い。
目上に対する尊敬の念というのもまったくない。
こういうことが無条件で反応できる基本が必要だ。

子供たちの脳は、なんでも吸収できるすばらしい脳だ。
一番吸収できるときに、ゆとりなんていう言葉にすりかえられた教育の怠慢は困る。
タフなのだ。大人よりタフな吸収力があるのだ。

みたい、知りたい、やりたい そんな好奇心を伸ばすような教育を望む。

最初に話した白雪姫の劇だって、主人公の女子の演技を見たとき、感動して自分もがんばろうという芽も生まれていたのかもしれない。
可能性は限りないのだ。

大人の安直な心で、摘んではならない。
» category : 私的回顧 ...regist » 2004/10/31(Sun) 14:49

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